錯視の歴史とは

錯視の歴史とは

錯視とは、目に映るものと実際のものとが異なっていることとして知られています。この錯視は古代から知られていました。

古代の錯視を利用した建物(パルテノン神殿と法隆寺)

紀元前5世紀にアテナイ(現在のギリシャの首都アテネ)に建てられたパルテノン神殿には、錯視を利用した仕掛けがあります。 柱の真ん中までが太く、上部は細くなっています。この「エンタシス」という様式の柱は、まっすぐな柱よりも、見上げた際に安定感があります。 これは、当時の人々の経験から生み出された技術です。

古代の錯視を利用した建物(パルテノン神殿と法隆寺)

古代の錯視を利用した建物(パルテノン神殿と法隆寺)

 

パルテノン神殿に見られる、錯視を利用した柱の仕掛けは、607年に建てられた奈良県の法隆寺にもあります。 日本でも、どう見えるかをしっかりと計算された建築物が作成されていました。現在では、人間の錯視を利用した建築物であることが判明しています。当時の人々は錯視について本格的な研究がされる前から、このような建物を作成していたのです。

錯視に関する研究の歴史

錯視を理解するために重要な要素となる研究を紹介します。

アリストテレスによる人間の五感の研究

アリストテレスは古代ギリシャの哲学者です。哲学をはじめ論理学や自然学、政治学など、数多くの分野で大きな影響を与えた人です。 アリストテレスは、「霊魂論」という本を著し、人間の五感(視覚、触覚、味覚、聴覚)についての考え方を明らかにしました。

また、「気象学」という本では、太陽や月が空の高い位置にある時より、昇ったり沈んだりする途中の低い位置にある時の方が大きく見えることについても論じています。この現象は「月の錯視」と呼ばれ、現在でも理由は正確にはわかっていません。

ユークリッドの法則

ユークリッドは紀元前のギリシャで活躍した学者です。数学を研究し、数学を利用した天文学や視覚の研究もしていました。 古代ギリシャの哲学者の中には、ものが見える理由として、目から光線のようなものが対象物にあたることだと考える人たちがいました。(ユークリッドもそのひとりです)

ユークリッドが紀元前300年頃に発表した「視覚」という本には、ものの見方についての法則が載っています。

「目より上に置かれた平面のうち、遠いものの方が低くあらわれることになる」

錯視とはものの見え方による錯覚なので、このような研究は錯視の解明をする重要な要素になります。

「光学の父」アル=ハイサム

中世になると、ギリシャの科学はアラビアにも伝わり、研究されるようになります。965年頃、現在のイラクに生まれたアル=ハイサムはレンズや鏡を使用していろいろな実験を行い、光の働きや目の仕組みについての研究で多くの成果をあげました。

光の働きについて研究する学問は「光学」と呼ばれますが、アル=ハイサムは「光学の父」といわれました。

人間の目の仕組みを研究したケプラー

現在のドイツで16世紀に生まれたケプラーは、天体の動きを解明した天文学者です。 ケプラーは星の観察をするため、光を研究し、さらに人間の目の仕組みの解明をはじめます。望遠鏡などで実験を重ねた結果、目の中のレンズ(水晶体)が、目に入ってきた光を屈折させ、網膜に集めて像を形成していることを明らかにしました。

体と心を区別するデカルト

16世紀末にフランスで生まれたデカルトは哲学者として知られています。光や人間の視覚について研究した科学者でもあります。 しかし、デカルトはケプラーのように、目の仕組みを研究するだけではなく、見たものを認識する人間の心や脳についても研究を進めました。

デカルトは、体と心は別のものであると考えました。そして、目がものを見ているのではなく、目を通して心がものを見ているのだと主張しました。 体と心は別のものであるというデカルトの考え方は、その後しばらく大きな影響を持ちましたが、現在では、体と心を分裂したものと考えている研究者はほとんどいません。 しかし、「目がものを見ているのではなく、目を通じて脳がものを認識する働きを持っている」という現在の考え方に、デカルトは一歩近づいたといえます。

盲点の発見したエドム・マリオット

近代になると、物事を科学的に解明しようとする動きが進みます。 1660年代に、フランスのエドム・マリオットが、目には「盲点」があることを発見しました。マリオットはフランス生まれのキリスト教の聖職者でした。 彼は大学には行かず、独学で化学を学んだと考えられていますが、物理学、機械学、光学、植物学、水力学、気象学など、いくつもの科学の分野で功績を残しました。

目に入る範囲の中では全て見えているように感じます。しかし、実はものが見えていない部分があります。それが盲点と呼ばれるものです。 盲点がある理由は、目に入ってきた光は、目のレンズを通って屈折し、眼球の後ろにある網膜に集められて像を形成します。

実験や経験を重視するジョージ・バークリー

アイルランドに生まれたジョージ・バークリーは、哲学や資格に関する研究を行った聖職者でした。 バークリーは、人がものを見るときには小さな網膜に像が映っているだけで、本当の大きさや距離を見ているわけではない、ということに注目しました。 ものを見た時の大きさや距離は、視覚だけから認識されるのではないと考えました。

触った感覚や、実際に手を伸ばしたり歩いたりして感じる距離感などの過去の経験と照らし合わせることで、大きさや距離が認識されると考えたのです。

心理学のはじまりヴィルヘルム・ヴント

19世紀の半ば頃になると、科学が急速に発展します。人の心の働きを科学的に解明しようという動きも強くなりました。 人の心の働きは、それまで哲学の分野とされていました。この頃から、哲学から独立する形で心理学という学問が登場します。

心理学が独立したのは1879年、ヴィルヘルム・ヴントが、ドイツのライプツィヒ大学で心理学の実験室を開いたときだとされています。 心理学は、心の動きやそれに伴う人の行動を調査分析し、さまざまな問題を解決しようとする学問です。

こうした心理学において、人がものを実際とは異なって認識することから錯視が注目され、錯視は多くの心理学者の研究対象になりました。 その結果、多くの錯視が心理学者によって発見されていきました。